長瀞城跡:綺麗に残るお堀を散策してみる
することがなくてGoogleMapsを眺めて遊んでいたら、長瀞城跡を見つけた。
県内に城跡なんて腐るほどあるだろうけど、他と違うのは地図上で見るとはっきりとしたカタチで残っていることだった。
記事内ではいくつかの案内板を引用し、4日間に及ぶ撮影をしています。
詳細
名称:長瀞城跡(ながとろじょうせき)
規模感:☆☆☆(大)
駐車場:二の堀 北部に2台など
アクセス:さくらんぼ東根温泉から徒歩15分程度
所在地:山形県東根市長瀞
駐車場
ネットでは駐車場がない、と嘆いている人が散見されるけど実はここにある。
長瀞城について
鎌倉時代に西根氏によって築城され時代と共に城主は変わり続け、江戸時代まで存在した。
長瀞藩は戊辰戦争では奥州越列藩同盟に属し、新政府側の天童藩との戦いで陣屋や町を焼失した。版籍奉還の後は藩庁移転の願い出を新政府に行い、上総国山武郡大網村の大網陣屋に藩庁を移し長瀞藩は廃藩となり、跡地は民間に払い下げられた。
現在は住宅地になっている。
特徴
水堀、土塁を二重に巡らせた方形輪郭式の平城で、かなりの規模を持っていた。
地図を見れば明らかだが、長瀞城は町の大本になっている。特に整備がされていて、貴重な文化財として活用されることが期待される。ただし、復元された部分が多いという事には注意を要する。
一部Wikipediaより引用
復元だったのか・・・
散策してみる
中心から一の堀、二の堀、三の堀と囲っているが、わかりやすい二の堀を中心にぶらぶら~っと散策する。
大手
東根温泉からまっすぐ進むと東側の大手に着く。
こちらには石碑があり、長瀞城跡の大きい案内地図が掲載された場所もある。
陣屋の入口に表門があり、その名を大手門というところから、通称大手という。
陣屋とは大手から先に進んだ城跡中心部分の一角。
この地図は右が北になっている↓
西堀
二の堀西側にあり、とても静か。水面は藻らしき緑色で覆われていた。
ビッシリ詰まっているので、間違えて歩いてしまいそう。
途中で急にプッツリ切れてこうなる・・・
次の日訪れたら逆転して緑が左になっていた・・・
かつては蓮の花が咲いていたという。
下堀
二の堀 北西部にあり、コスモスが咲いて落ち着いた雰囲気。
二の堀で、最も下手にある堀で、堀巾も広く、約九間(十七米)もあった。
撮影初日
次の日になると様変わり
この周囲が一番美しいかもしれない。
中楯堀
二の堀 北東部の中楯堀へ。
このあたりは、三の丸の守備郭であった。二の丸と三の丸をつなぐ隠し道といわれた。
釣り人多し
釣ってもいいけど持ち帰りは禁止なのだろうか。鯉以外はいいのだろうか。
一輪だけ咲く彼岸花
カラフル
とにかく綺麗
途中、巨大な樽を見つけた。
これは何だろう・・・と二の堀の内側へ歩いていく。
まぁ・・・樽だったね。
その他
二の堀周辺はこのくらいにして、外側を少しだけ巡ってみる。地図上で見てもお寺や神社、祠などたくさん存在しているので、それらを訪れてみるのもいいかも。
河岸端
長瀞村に流入する水はここの小川と南口の小川のほかない。近くに幣帛(へいはく、梵天様)があり水神を祀る。
飲み物を供える人がいる。
馬洗川
城跡の角3か所に馬洗川があり、こんな祠のようにになって残っていたりする。
農機具が今日のように発達しない頃、農耕を牛馬の力をかりてすることが主で、その牛馬を洗う小川を云う。流れ水の少ない長瀞では地区内の水を汚さないよう村はずれの川尻で牛馬の汚れを洗い流して家に帰った。
陣場
城跡から少し外れた南西にある。
元亀・天正(1570~1591)山形最上氏と天童里見氏が相争い、この地方が大いに乱れたすきに、越後(新潟県)の上杉氏が十六里越より攻め来たり、寒河江谷地を攻め落とし、長瀞に攻め込もうとした時城主長瀞左エ門尉は迎え討たんと、ここに陣立てをしたという。
この南方に軍町(いくさのまち)という古戦場跡がある。
軍町という地名からして面白いので早速訪れた。
軍町
古戦場の跡といわれるが、詳しくはわからない。
との案内板・・・
なんだそりゃー
はりがねの丘と天守閣
軍町にほぼ隣接する近さにある小学校には天守閣があった。直接長瀞城跡とは関係なさそうだけど。
長瀞小学校130周年記念事業の一環として、市民と行政とのまちづくり事業として造成した。
最後に
さくらんぼ東根温泉からまーっすぐ進むと到着する。1㎞弱程度の距離にあるので、歩いて行くことが出来るはず。
本当はもっといろいろあるようだけど、今回はこのへんで。
空港が近いので真上に飛行機が飛ぶ↓
ではまたー